アケメネス朝ペルシア。紀元前550年から紀元前330年の220年間にわたって、バルカン半島から今のパキスタンあたりを支配した巨大国家です。
あまりに巨大な国家ですので、王様が全てを支配するのは難しかったようです。国家を20くらいに分割して各地にサトラップ(知事)を設置し、サトラップが担当地域を支配しました。
今回はサトラップの一つ、フェニキアのシドンで発行された銀貨の紹介です。
コインの外観
上側はガレー船(戦闘艦の一種)、そして下側はチャリオット(戦車)が描かれています。両方とも軍事関連ですから、シドンは軍事力が高かったと想像できます。
コインのスペック
- 額面:double shekel
- 年号:紀元前365年~紀元前352年
- 材料:銀
- 直径:25mm
- 重量:25.65g
- グレード:F
シドンの位置
デザインを紹介する前に、地図でシドンの位置を確認しましょう。赤い印の部分です。地中海に面していますので、海洋技術が重要だっただろうと想像できます。同時に、現在のエジプトとトルコを結ぶ陸路の中間地点にあり、陸上の活動という視点でも重要だったことが分かります。
ガレー船とチャリオットは海戦・陸戦で重要な装備であり、だからこそコインにも描かれたと予想できます。
画像引用:Google Map
ガレー船(戦闘艦)
シドンの銀貨ですから、シドン製のガレー船が描かれていると予想できます。
一番下のギザギザ線は海を表現し、上に船が浮かんでいます。船の上部にある丸いデザインは、人の頭でなく盾です。相手の攻撃から守る役割を果たしました。
そして、赤枠で囲った部分はオール(櫂)です。当時、石炭動力等はないので、人力で漕いで船を進めました。オールの数を数えると20ありますので、この船は左右20人ずつの合計40人で船を漕いだのかもしれません。
また、船に帆を張って推進力を得る方法もありました。しかし、上のコインには帆がありません。風力を使う方が長距離を進むのに都合が良いものの、適切な風の存在が前提となります。帆がないので、シドン周辺では風が安定しなかったと予想できます。
なお、ペルシア戦争の際、シドンはアケメネス朝の一員としてギリシャまでガレー船を出しています。ギリシャはさすがに遠いので、人力では移動にひどく時間がかかります。よって、帆もうまく利用したことでしょう。
チャリオット(戦車)
このチャリオットは、車輪が左右に1つずつ、馬は2頭で構成されています。そして、前に御者、後ろにペルシア王が描かれており、王は右手を挙げています。その後ろに徒歩の従者がいます。
なお、コインの左上に「go」という文字が見えます。当時の言語ですから英語のgoではなく、為政者の名前(Abdashtart I、アブダシュタート1世)を示したものです。
シドンとアケメネス朝の関係
コインのデザインではアケメネス朝の王を中心に描き、そしてペルシア戦争ではガレー船を出しており、シドンはアケメネス朝に従順に従っていたような印象になります。
しかし、このコインを発行したアブダシュタート1世の時代(紀元前365年~紀元前352年)、実際の様子は大きく異なります。
アケメネス朝ペルシアは、紀元前550年から紀元前330年にかけて存続しました。すなわち、アブダシュタート1世の時代はアケメネス朝の晩年であり、国力が衰えていました。
アケメネス朝は全国を20ほどに分割し、それぞれにサトラップを配置していました。すなわち、サトラップは強大な支配力を持っています。貨幣製造権を持っていたり、自前で軍隊を整備したり。そこで、アケメネス朝は監察官を置いてサトラップの行動を監視しました。
しかし、何百年にもわたって制度を機能させるのは難しいのでしょう。サトラップが度々反乱を起こし、アケメネス朝は体制の維持が困難になっていきました。
手始めは、紀元前400年頃のエジプトです。反旗を翻し、アケメネス朝が差し向けた軍を退けて事実上の独立状態となりました。紀元前360年代にはアケメネス朝がエジプト奪還を狙って戦いを仕掛けましたが、失敗に終わりました。
これを機に現在のトルコでは独立に向けた機運が高まり、シドンを支配していたアブダシュタート1世も同様でした。彼はアテネ等と同盟を組んでアケメネス朝に対して反乱を起こしました。これは失敗に終わったものの、最終的に、アケメネス朝はアレクサンダー大王に滅ぼされてしまいました。
その後のシドン
アレクサンダー大王もまた、巨大な国土を得ましたが、急死。その後、ディアドコイと呼ばれる後継者が領土をめぐって争い続けました。シドンはプトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアの境界線あたりに存在したため、領有権を巡って幾度も戦いが繰り広げられました。
結果、紀元前200年にセレウコス朝シリアの領有が確定しました。