1801年~1900年 アジア・オセアニア

ドイツ領ニューギニアの銀貨(極楽鳥)

2022年8月18日

極楽鳥のデザインで有名な、ドイツ領ニューギニアの銀貨。今回は、この銀貨の発行者やデザイン制作者等にまつわる話を紹介します。

極楽鳥コインのデザイン

ドイツ領ニューギニアは、世界史の中で位置付けると目立つ存在ではないでしょう。存続期間は、1884年~1914年の30年間にすぎません。また、銀貨は1894年のみ発行、金貨は1895年のみです。しかし、金貨・銀貨ともに有名です。

その理由は、デザインの素晴らしさでしょう。下の画像の通り、極楽鳥が生き生きと描かれており、コイン内のちょうど良い位置に収められています。

ドイツ領ニューギニアの5マルク銀貨

ドイツ領ニューギニアの5マルク銀貨

コインのスペック

  • 額面:5マルク
  • 年号:1894年
  • 材料:銀
  • 直径:38mm
  • 重量:27.78
  • グレード:EF+

なお、額面がある側の一番下に、「A」が書いてあります。これは造幣局を示しており、ベルリンです。ドイツで作って、ドイツ領ニューギニアまではるばる運搬したことが分かります。

また、コインの最上部には、「NEW-GUINEA COMPAGNIE」(ドイツ・ニューギニア会社)とあります。国家名(ドイツ)でありません。これは、私企業が支配していたことを示しています。

ただし、ドイツ・ニューギニア会社は当地の支配をドイツ政府に任されていました。このため、このコインはトークンでなく、正式のコインです。

コインとトークン

コインは、一般政府が発行した正式な貨幣を指します。これに対し、私企業等が私的に発行したものをトークン(代用貨幣)と呼びます。

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デザイン制作者

そして、時代が過ぎて2020年。パプアニューギニアで、同じ極楽鳥のデザインでコインが発行され、コレクター向けに販売されました。極楽鳥コインの人気がうかがえます。

これだけ人気のデザインだと、誰がデザインしたのか多少気になるところです。そこで、コインのどこかに彫刻家名のイニシャルはないか…と探しても、それらしいものは見つかりません。

制作した彫刻家は、ドイツの造幣局員、Otto Schultz 氏です。そして、同氏がデザインしたコインで最も有名なのは、クルーガー金貨の肖像でしょう(下の画像左側)。南アフリカが発行している金貨です。

クルーガー金貨

引用元:SIX BID

また、極楽鳥コインの裏側は、Emil Weigand 氏が担当しました。同氏は、ベルリンの造幣局に勤める前、1863年から1866年までの間、イギリスの Alfred Benjamin Wyon 氏の事務所で働いています。

"Wyon"(ワイオン)の名前にピンと来るかもしれません。ヴィクトリア女王の金貨「ウナとライオン」のデザイナーは William Wyon 氏です。Wyon一族はコイン彫刻の分野で有名で、何人もの著名な彫刻家を輩出しています。

彫刻家の世界は広いとは言えないようで、交流があった人物をたどっていくと、このように何らかの形で有名な人物との接点が見つかります。

ドイツ領ニューギニアの位置

次に、ドイツ領ニューギニアの位置を確認しましょう。下はGoogleMapで、矢印部分は現在のパプアニューギニアです。このうち、北半分がドイツ領ニューギニアでした。

下の地図の矢印を見ると、「ビスマルク海」と書いてあります。ドイツ領だった名残が分かります。

パプアニューギニア

ドイツ・ニューギニア会社の植民地経営

ここで、19世紀後半の東南アジアやオセアニアを概観しましょう。

ドイツがニューギニア北部を植民地化する前、既に列強は諸地域を植民地化していました。例えば、オーストラリア一帯はイギリス、インドネシアはオランダ、フィリピンはスペインといった具合です。

一方、ドイツは、1871年にようやく国内の統一が完了しました。この時点で世界各地は列強のものになっており、ドイツは競争に大幅に遅れました。

しかし、ニューギニア北部を確保できました。この土地、他の列強諸国は先に占領しようと思えばできたのですが、欲しがらず、手つかずの地域だったのです。

といいますのは、この地域は軍事的重要性がない上に経済的メリットも乏しく、マラリア等の病気が猛威を振るっていたためです。植民地経営するには厳しい地域だったのです。

そこで、ドイツ本国も自ら植民地経営に乗り出すのでなく、この地域に積極的だった会社、すなわちドイツ・ニューギニア会社に支配を委任したのでした。1884年のことです。

植民地経営の失敗

ドイツ・ニューギニア会社は、ベルリンに本社を置いていました。そして、当初は比較的上手に植民地経営ができていたようです。現地住民に報酬を与え、開墾してプランテーション経営を展開しました。しかし、報酬はビーズだったり鏡だったり…。

現地住民から見れば、初めのうちは珍しがって喜んでいたものの、ビーズや鏡って価値ないよね…と気づき、また、プランテーション経営のために自分の居住地を追われ、さらに西欧式の仕組みは現地の実情に合わず。

これではやる気が継続するはずはなく、一向に生産性が上がりませんでした。

さらに、病気が蔓延して人手を確保できなくなりました。そこで、周辺地域から人々を集めたのですが、マラリア等が蔓延して、7割~8割の住民が失われる事態に。

ドイツから植民した人々も病気で死亡したりして、ドイツ・ニューギニア会社への求心力がなくなってしまいました。そこで1899年、ドイツ・ニューギニア会社は植民地経営権を返上し、ドイツ政府が直接支配することになりました。

ドイツ政府にとっては、経営権を引き継いだものの経済的価値は低いですし、ドイツ領ニューギニアはドイツ本国から遠すぎます。このため、ドイツ政府は適切な規模の軍隊を置けず、そこそこの植民地経営でした。

なお、この記事冒頭で紹介しました銀貨は、1911年に無効化されました。

第一次世界大戦で占領される

1914年、第一次世界大戦が勃発しました。まともに軍隊を置いていなかったこともあり、オーストラリア軍に速攻で占領され、ドイツ領ニューギニアは消滅しました。

歴史の生き証人

ドイツ領ニューギニアは、世界史における重要性が高くないことから、人々の関心が集まることはなかなかありません。しかし、この銀貨があるおかげで、少なくともコインコレクターの間ではその存在が認知されています。

また、このコインを契機として、多くの人々がドイツ領ニューギニアについて調べ、学んできたことでしょう。このコインは、歴史の生き証人として現代も生きているといえそうです。

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