ブランデンブルク・プロイセン(Brandenburg-Prussia)は、現在のブランデンブルク州からポーランド北部にまたがる地域です。今回は、この地域を統治したフリードリヒ2世の1ピアストル銀貨を紹介します。
フリードリヒ2世と1ピアストル銀貨
フリードリヒ2世(在位:1740-1786)は1700年代ヨーロッパ史の重要人物であり、高校世界史Bにも出てきます。軍事力を強化して国土を拡大し、啓蒙専制君主として国内産業の振興と国政の整備に努めました。
彼のキーワードには「マリア=テレジア」「オーストリア継承戦争」「七年戦争」などがあり、どれも世界史の重要なイベントです。下の銀貨は、国土拡張と貿易の視点で確認すると理解しやすいです(この記事で解説します)。
画像引用:(株)ダルマ
コインのスペック
- 発行国:ブランデンブルク・プロイセン
- 額面:1 ピアストル
- 年号:1751年~1752年
- グレード:Tone EF+
- 材料:銀
ブランデンブルク・プロイセンの場所
では、ブランデンブルク・プロイセンの場所を確認しましょう。下のヨーロッパ地図の右上に、2つの丸を書きました。西側(左側)がブランデンブルクで、東側(右側)はプロイセンであり、この2つの地域は離れていました。
画像引用:Wikipedia
国土拡張と中国貿易
1740年、オーストリアのマリア=テレジアがハプスブルク家の全領土を継承すると、フリードリヒ2世はこれに異を唱えて戦い、領土拡張に成功しました(オーストリア継承戦争)。
- 東フリースランド:下の地図の真ん中の小さな丸部分
- シュレジエン:ブランデンブルクの南の赤丸部分
獲得した2地域を比較しますと、シュレジエンの方が知名度が高いです。しかし、ここで主役になるのは東フリースランドです。フリードリヒ2世にとって、東フリースランド獲得は夢を実現するチャンスになりました。夢とは、中国と直接貿易をすることです。
ブランデンブルク・プロイセンは、東フリースランドを領有する前から勢力を拡大していました。では、ノルウェーなどは、フリードリヒ2世に対して自由な貿易を許すでしょうか。もちろん、自分の身が危うくなりますから、許しません。むしろ妨害します。
このため、フリードリヒ2世はどうすることもできませんでした。しかし、今は違います。東フリースランドを獲得したのです。ノルウェーやデンマークの妨害を心配せずに海洋に出ることができます。
下の地図をご覧いただきますと、その様子が良く分かります。東フリースランドを領有していない頃、中国と貿易するにはどうしてもノルウェーやスウェーデン沿岸を通過する必要がありました。海峡は狭く、航行を簡単に阻止されてしまいます。しかし、東フリースランドから北に抜けるのは簡単です。
1751年、フリードリヒ2世は東フリースランドの中心都市エムデン(Emden)に対して、自由港の勅許を出して貿易を推進しました。貿易相手は中国の清です。エムデンでは、同年に会社(Royal Prussia Asiatic Company)が作られました。通称、Emden Company(エムデン社)です。
ちなみに、東フリースランド地方のすぐ西側には、オランダがあります。オランダの中心都市アムステルダムは、従来から海洋貿易で成功してきました。フリードリヒ2世は、エムデンを第二のアムステルダムにしたかった模様です。
Emden Companyの成功
エムデン社が設立されてから、清との間で積極的な貿易が始まりました。貿易船が16回に渡って清朝に向けて出発し、すべてが無事に帰港しました。冒頭の写真でご案内した銀貨は、この貿易決済用に作られたものです。ここで、もう一度画像を掲載します。
当時、パナマ運河もスエズ運河もありませんでした。すなわち、中国と貿易するには、アフリカ大陸をぐるりと回って行く必要がありました。途中で寄港したでしょうが、大変な航海だったことは想像に難くありません。しかし、16回の貿易を見事に成功させました。
また、この銀貨の存在で分かるのは、「欧州は中国から物を買って、中国は欧州から銀を回収する立場だった」ということです。すなわち、清に銀が蓄積されていったことが分かります。
しかし、19世紀にこの立場は逆転します。清は列強の圧力にさらされ、欧米に貴金属を一方的に回収される立場に転落することになります。
貿易の突然の終わり
さて、話を戻しまして、エムデン社の貿易は、突然の終わりを迎えることになりました。その理由は、7年戦争の勃発です。下に、地図を再掲します。
かつて、ブランデンブルク・プロイセンはオーストリア継承戦争で領土を拡大し、シュレジエンを獲得しました(赤部分)。しかし、マリア=テレジアが奪回の機会を狙っていました。マリア=テレジアはフランスやロシアなどと同盟を組み、プロシアはイギリスと組んで戦いました。こうして、7年戦争(1756年~1763年)が勃発しました。
この戦争で、プロイセンは東フリースランドを占領されてしまいました。清との貿易は、東フリースランドの領有が前提です。これが破られたため、フリードリヒ2世の努力もかなわずエムデン社の貿易は終了を迎えることになりました。
この銀貨の価値
最後に、コインの価値に目を向けましょう。歴史を振り返りますと、この銀貨の役目は短期間で終ってしまったことが分かります。この銀貨が製造されたのは1751年と1752年のみであり、製造数は少なかったと予想できます。
さらに、支払いで使われた銀貨は、そのまま他の支払に使われることもありますが、新規にコインを作るために溶解されてしまうこともしばしばでした。このため、この銀貨の現存数は少なく、貴重です。
また、この銀貨は、アンティークコインを網羅したカタログ「Standard Catalog of World Coins」(KMカタログ)に掲載されていません。理由は、単に掲載漏れです。残存枚数の少なさに掲載漏れが重なり、神秘性が高まっています。